【転換期の決断】木彫職人の技を未来へつなぐ等雲先生の選択(第3話)

高度経済成長の陰で訪れた転換期

1970年代、日本はかつてない繁栄の時代を迎えていました。
新幹線が日本列島を走り、万博が開かれ、家庭には最新の家電が並び、「モノづくり大国」として世界に名を馳せていました。

変化に揺れる町工場

しかしその一方で、伝統的な木工の世界には、静かに“時代の終わり”が近づいていました。
木製品が次々と軽く安価なプラスチックに置き換わり、ものづくりの現場は大きな転換点を迎えていたのです。

ヨコハマカービングでも、時代の変化は確実に迫っていました。
1960年代に盛んだった土産物や玩具の注文は徐々に減り、市場には新しい素材を使った工業製品が溢れていきます。

それでも等雲先生は、木という素材の可能性を探求し続けていました。

海外勢の台頭と、思いもよらない現実

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しかし1970年代後半になると、さらに大きな波が押し寄せます。
木彫製品を低コストで大量生産するアジア諸国が台頭し、日本の町工場は急速に追い込まれていきました。

さらに追い打ちをかけたのが、「自ら教えた技術が、やがて日本の仕事を奪っていく」という皮肉な出来事でした。

当時、政府の要請により、東南アジア諸国から研修生が技術習得のために訪れていました。
等雲先生は「技を学びたいという気持ちのある人には、国籍は関係ない」という信念から、
木取り、刃物の研ぎ方、仕上げの工程に至るまで、惜しみなく技術を伝えました。

先生は彼らに対し、日本人の弟子以上に丁寧に教えたといいます。
木材の特性、刃の入れ方、勘どころ――。
時間をかけて向き合い、ひとつひとつの工程を体に刻ませました。

しかし数年後、彼らが帰国してから思わぬ変化が起きました。
教えた技術を活かし、自国で工房を立ち上げ、日本向けの製品を大量に受注するようになったのです。
その生産コストは、日本国内とは比べものにならないほど安価でした。

その結果、ヨコハマカービングをはじめ、日本の木彫工房の仕事は確実に減っていきました。
まさに「善意がめぐりめぐって自分たちの首を絞める」という苦しい状況でした。

苦悩の末に下した決断

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経営者としての現実は、日に日に厳しさを増していきました。
ピーク時には200人を超える社員と関係者の生活を守ることが求められ、
木彫一筋で生きてきた職人たちを、簡単に別の業種へ送り出すこともできませんでした。

そんな中、産業用試作品の仕事を通じてつきあいのあった大手有名企業から、
「資金面や設備投資で支援します」と打診を受けたこともあったといいます。
それほど先生の技術力と誠実な仕事ぶりが信頼されていた証でした。

しかし先生は、その申し出を丁寧にお断りしました。

理由はただひとつ。
「時代の流れそのものが変わってしまった以上、続けても職人たちが苦しむだけだ」
と悟ったからでした。

安価な海外製品が市場を席巻する中、木彫の町工場が以前のように活躍できる未来は、
どう努力しても描けなくなっていたのです。

悩み、葛藤しながらも、先生はついに会社を畳むという苦渋の決断を下します。

“教えること”への転身

1980年代、先生は横浜で木彫教室を開きます。
仏師のような厳しい修行ではなく、誰もが自由に彫刻を学び、
自分の手で形を生み出す喜びを感じられる場を作りたい――。
そんな思いから始まった教室です。

この温かい方針は多くの生徒に支持され、教室は40年以上続く場となりました。

ヨコハマカービングの灯は消えましたが、
等雲先生の中に燃え続ける“木を彫る魂”は、確かに次の世代へと受け継がれていきました。


次回予告 ―【受け継がれる技】木彫の未来をひらく等雲先生の教室という選択(第4話)

現在の教室での先生の姿、そして“教えること”に込めた想いを描きます。


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