【戦後から始まった木彫りの物語】等雲先生が歩んだ“木と生きる”人生の原点(第1話)

はじめに ― 81歳の木彫家が語る原点

2025年時点で81歳になる等雲先生。今でも精力的に生徒を教え、作品作りも続けられておられます。しかし、その歩みは戦後の混乱期から始まりました。本記事では、その原点に迫ります。


戦後の混乱と、父の挑戦

先生の父は地方公務員でしたが、戦争末期に徴兵され戦地へ。
戦後の日本は焼け跡が残り、生活は厳しいものでした。
復員後、父は持ち前の行動力で市議会選挙に挑戦しますが、不運が重なり落選。家には多額の借金が残ります。

“手仕事”から開けた道 ― 錫合金修理と細工仕事

生活を立て直すため、父はあらゆる手仕事に取り組みます。
物のない時代、道具の修理が仕事を生み、そこから細工仕事の依頼も増えていきました。

父が得意としていたのが錫(すず)合金の修理。器用で細かな作業をいとわない性格から、木や金属の細工も請け負うようになり、それが「彫刻」という新たな領域へとつながっていきます。

ヨコハマカービング誕生 ― 木彫専門の職人集団へ

先生の話をもとにAIで再現したハニーバケツ

父の技が評判を呼び、彫刻の注文は増え続け、やがて父は自身の会社「ヨコハマカービング」を設立します。
戦後、日本では観光土産が広まり始めた時期であり、米兵たちが土産物を買い求めたことも追い風となりました。

銀座の昭和通りにはテント村が並び、木彫りの置物が飛ぶように売れていきました。
特に人気だったのが「ハニーバケツ」。大きな桶が入った台車を牛が引いている様子でした。

でも、実はこの置物、日本で使われていた肥桶(こえおけ)をモチーフにしたものでした。米兵たちは知らずにユニークな民芸品として買っていったのだそうです。

「本当のことを知ったら、とてもあんなに売れなかっただろうな」
と先生は笑って振り返ります。

ヨコハマカービングの売上の三分の二は米兵向け。赤坂の米軍総司令部に納品に出向くこともありました。
当時の1ドルは360円。外貨収入は貴重で、木彫技術は日本の強みとして高く評価されていました。

幼い等雲先生が身を置いた“本物の職人の世界”

イメージ

木の香りが満ちる作業場。削り屑が舞い、ノミを叩く音だけが響く空間――。
等雲先生は、幼い頃からその中心に立たされていました。

というのも、先生の父は病気で倒れてしまい、家業を支えるため、先生は小学生の頃から彫刻の手伝いを始めていたのです。
学校へ通いながら、帰宅すれば厳しい職人たちと肩を並べて木を削り、ときには客先へ集金に走る日々。
遊びとは無縁の生活でしたが、その環境こそが先生を職人として育てました。


次回予告 ―【ものづくり黄金期の舞台裏】職人と共に歩んだヨコハマカービングの青春時代(第2話)

次回は、若き等雲先生が職人たちと共に走り抜けた青春期を描きます。
戦後の混乱から高度成長期へと向かう日本の中で、先生がどのように技を磨き、現在へと続く道を歩んだのか。その物語をお届けします。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: